道徳的であろうとすることの弊害

道徳的 ネオ・仕事観

警察官や学校の先生の不祥事。

メディアでこういう報道が流れるたびに

「職業柄道徳的であらねばならない息苦しさ」

を想像せずにはいられない・・・

 

「道徳的に正しい人間」であろうとすると、

その思いとは逆の方向に走る力が働くんです・・・

 

道徳的ではない自分が主張してくる

どんな人でも、たとえ聖職といわれる仕事についていても、

ネガティブな感情を持つことはありますよね。

というか、人間である以上、感情というのはプラスもマイナスも

あって当たり前。

たとえ牧師さんでも、もし自分のことを思いっきり罵倒されたら

平常心ではいられないはず。

それを、職業柄ふさわしくないからという理由で

抑え込む。

 

そのエネルギーは消えることはなく、

「本当は自分は(他人の目に映っているような)

素晴らしい人間じゃない」

という思いが、ネガティブな感情を隠すたびに

強まっていくんです。

出口を失ったそのエネルギーが閾値を超えて

あふれてしまう。

 

正しくあることを期待、というより

無言のうちに強要されているような職業の人ばかりじゃ

ありません。

「え?あんなにいい人が?」といわれるような人が

犯罪を犯したりするのも、ネガティブ感情を隠すことによるもの。

「いい人に見られてるけど、本当の自分はそうではない」

ことに対する罪悪感が自分を罰する方向に導いてしまうんです。

 

先生である前に人間である

警察官である前に人間である

牧師である前に人間である

 

そう考えると、罪を犯したこと自体はまずいけど

苦しい胸の内を察するに、責めることはできないです・・・

 

こまめにハメを外してみる

大ごとになって、人生終了になってしまうくらいなら、

こまめに「いい人」の鎧を外して

自然体の自分でいる時間を作る。

それが、道徳的であることに囚われがちな職業の方や

いい人の枠からなかなか出られない人への提案です。

 

特に日本はまじめな国民なので、

「いい人」が多いかもしれませんが・・・

 

私が出会った、「お?これはぶっ飛んでるな!」

という例を参考までに紹介しましょう。

 

実例1: 女装が趣味の先生

薬局に勤めていた時のこと。月1回土曜日に来られる患者さん。

処方箋の保険者番号で学校の先生とわかるんですが、

ミニスカートにカーラーでセットしたヘア、

ローヒールのパンプスといういで立ち。

先生という社会的性格から自分を解放する手段なんだな~と

納得。お世辞にもきれいとは言えないけど

こちらもなんだかほっとしますよね。

 

実例2: 制限速度ガン無視の警察官

子供の剣道の試合で、マイクロバスで会場へ。

剣道を教えてくれている先生(警察官)の

運転中の会話。

「やべえ、時間押してるわ」

「飛ばすか」

余裕で100キロ超過。

警察官も人間なんだと思った瞬間でしたね。

 

道徳的であろうとする必要はない: まとめ

道徳というのは、法律や規則ほどの縛りがないように

思うけれど、実は他人の目という見えない圧力による

縛りが結構あります。

でも、本来人間は自由にやりたい存在。

道徳的な人間を演じ切るのは至難の業です。

だから、日ごろ道徳観念に縛られている自覚があるなら

本当の自分を隠している罪悪感が膨らむ前に

意図的に「プチ・タブーを犯す」ことを実践して

自分を解放しましょう。(速度オーバーを勧めてるワケじゃないです)

 

聖人君子にならなくていいし、人間臭くてぜんぜんOK。

 

ではまた!

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