「察する文化」は依存の象徴

察する 人間関係の泳ぎ方

「疲れたアピールされんのマジ腹立つんだよね」

クラスメートの態度に納得いかない娘。

学校に来るなりこれ見よがしにため息ついたり、

突っ伏して寝てみたり。

「私疲れて体調悪いの」と言わんばかりの態度に

辟易している様子。

娘が「大丈夫?」と言っても不機嫌な感じで

みんなに心配されるのを期待してる感満載。

「察してよ」という要求がましさを感じて

めちゃくちゃ気分が悪くなるとのこと。

 

「察する文化」は日本的な細やかな気配りを

イメージさせる一方で、

それを暗黙のうちに強要されている一面も。

「察してほしい」と思う心理と解決策を考えます。

 

「察して」もらうことで周りの評価を下げずにエネルギーを奪える

娘の話の例で言うと、

そのクラスメートは疲れてるのを解決しようなんて

思ってないんです。

疲れてることをうまく使って、

周囲の同情や気遣いを引き出して

自分を満たしたいだけ。

娘はそれを感じて嫌悪感を覚えたのかもしれません。

そして、自分が疲れていることを

言語化せずに態度で表現することで、

周りの人間の罪悪感を刺激しています。

特に、自分より他人を優先しがちな人が

罪悪感を感じがち。

その中身はこんな感じ。

「あ、なんかつらそうにしてる。

いたわりの言葉をかけてあげないと」

また、心の底にこんな恐れを持っていることも。

「無視なんかしたら、

自分は冷酷で、空気が読めない人間と認定されて

受け入れてもらえなくなる」

 

こう考えると、察することって

両者にとって、まったく建設的じゃないですよね?

 

「察する」ことのデメリットをなくすには境界線が大事

「察する」ことは、自分と他人との境界線を

あいまいにしてしまいがち。

「これくらいわかってくれて当然。

だから、察してくれるのは当たり前」

こんな考え方が「察する」ことを強要することに

つながるんでしょうが、

そもそも自分と他人は考え方・感じ方が違う生き物。

それなのにテレパシーのように

自分の気持ちを読んで動けなんてことを

要求するのは拷問ですよね?

なので、そんな理不尽な要求を突き付けられたと

感じたら、ガン無視で結構です。

 

冷たいですか?

 

でも、自分の辛さを他人に埋めてもらうことって、

家族でけんかしてるところへ、お隣さんが乱入してきて

仲裁に入るようなもんです。

本当に助けが必要なら、

言葉や行動で表現する必要がありますよね。

 

「察する文化」を返上して自立する :まとめ

いずれにしても、

「察してほしい」方は、周りが期待通りに動けば

満足するけど、それは一時的なもので

常に「察する」ことを要求するようになるし、

「察してもらえなかった」と感じた場合も

不満がたまる。いつも自分の感情が他人の態度に

依存してる状態です。

一方、「察する」方は、いつも罪悪感や恐れから

「察する」行動をしていて、

「察してほしい」方のカモになっている。

これも依存ですね。

 

もう、この悪循環はやめたいですよね。

 

そのためには

「察してよ」という圧を感じても、

「私はあなたがどんな状態だったとしても

あなたに踏み込むことはしません」

と決めればOKです。

どうしてもなびいてしまいそうなら、

その場を離れてもいい。

 

空気が読めない??

気配りが足りない??

 

そんなことを言う前に、

言葉できちんと表現するほうが、

コミュニケーションが断然

シンプルになるんじゃないかと。

 

ではまた!

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